倒産後の状況 2003年6月21日倒産の福助株式会社

福助株式会社(ふくすけ)は、東京都渋谷区に本社を置く足袋・靴下・ストッキング・下着などの製造販売をおこなう企業である。

大阪・堺で創業した足袋の老舗として、高い知名度を誇るが、2003年以降は東京に経営基盤が移っている。

創業者の辻本福松が、1882年に大阪・堺で足袋の製造販売をおこなう「丸福」を創業させる。しかし丸に福を入れただけの商標は、すでに他の業者が商標として登録していたこともあり、伊勢詣での際に福助人形を見つけたことから、これをもとに挿絵化、1900年に「福助印堺足袋」として商標登録をおこなう。またその間の1895年には足袋用のミシンを開発し、足袋の大量生産化を成功させる。

創業者・辻本福松の死後、後を継いだ辻本豊三郎は、販路を拡大すべく東京へ向かうが、当時東京では「足袋は手縫い」が常識となっていたため、販路の拡大に苦戦するも、徹底した売り込みを続けると共に、新聞への広告掲載や、看板・ポスターなどの設置に心血を注ぎ、やがて福助の名は全国に広がってゆく。パブリシティによって福助の知名度が上がることを知った辻本豊三郎は、1923年に博多、1928年には大阪・道頓堀、東京・浅草に巨大広告塔を設置。これを発端として、戦後サトウハチロー、三木鶏郎の手によるテレビやラジオでのCMソングなどによる宣伝につながってゆく。

1930年代から靴下、下着に進出を開始。また1950年代にはズック靴なども生産していたこともある。しかし足袋・靴下以外では、他の部門の業績に目立った伸びは見られず、1980年代には森英恵三宅一生などのデザイナーズブランドを積極的に取り入れたが、言うほどの改善は見られなかったこともあり、次第に経営は傾斜化してゆく。

2003年6月21日、民事再生法の申請に伴い、426億円もの負債を抱えて倒産する。同年10月1日に企業再生ファンド、MKSパートナーズにより設立された新会社へ、事業、商号、ブランドを含めた営業の一切を譲渡し、創業者・辻本一族は経営から退くことになった。変わって伊勢丹の名バイヤーとしてその名を知られる藤巻幸夫が社長に就任し、新たに経営基盤も東京へと移り、新生福助としてスタートを切ることになった。2007年5月17日、豊田通商との資本・業務提携により同社の持分法適用会社となった。2009年10月には豊田通商がMKSパートナーズの保有株式の全株を取得し連結子会社化した。

編集後記
靴下からはじめよう
民事再生法申請―老舗・福助の復活のため、再生ファンドはいかなるシナリオを描き、いかにして社長を見出したのか?社長となった藤巻幸夫は何を目指し、どう動いたのか?川島隆明とともに福助再生を主導した二人が、そのビジョンと実践を、熱く真摯に語る。

福助再生!

再生ファンド(といっても色々なタイプがありますが)が、どのようなことをするのか。実際に福助という企業に再生ファンドが入り、藤巻さんという異能の経営者を送り込み、福助と言う超老舗企業を再生していったか、という話。
福助の社員サイドの話ではなく、経営サイド、しかも乗り込んで行った側の話であるという一面性はあるが、活きた題材で、大変に面白い。
少なくとも、両経営者の真摯な姿勢と福助に対する考え方は非常によくわかる。
理屈だけでなく、実践していく様、というよりも実践をどう理屈付けていくか、という、現実のダイナミックさがある。
面白い。

穴吹工務店のFAに、日興コーディアル証券を選定 香川

倒産速報 明日はわが身です。穴吹工務店のFAに、日興コーディアル証券を選定 香川

経営再建中の穴吹工務店(高松市)は9日、スポンサー選定で管財人を補佐するフィナンシャル・アドバイザーに、日興コーディアル証券(東京)を選定したと発表した。同社管財人は、早ければ4月中にスポンサーを決めたいとしている。

同アドバイザーの主な業務は、スポンサー候補探しやスポンサー選定のための入札の実施に関する助言など。10数社の候補から、「穴吹工務店グループの一体再生を図ることを視野に総合的に選定した」としている。

また、同社は、分譲マンション「サーパス」5物件について、新たに工事再開を決定したと発表した。「サーパス」はすでに28物件で工事を再開して作業を進めている。残り12物件(愛媛、徳島、広島、岡山、神奈川、長野など10県)も工事再開に向けて検討を進めている。

「倒産」の本当の意味を知ってる? "吉野家復活"の裏にあったドラマ

倒産速報 明日はわが身です。「倒産」の本当の意味を知ってる? "吉野家復活"の裏にあったドラマ

年間売り上げ1,700億円(09年2月期決算)の牛丼チェーン「吉野家」は、80年に115億円の負債を抱えて倒産している。原因は無軌道な拡大戦略と膨大な無駄遣い。店舗数を8年間で5店から266店と53倍に増やしたことで、出店費用が経営を圧迫した。その対策として安い粉末タレやフリーズドライ肉を使用したために味が低下。あまりのまずさに、裁判所から選任された管財人が「こんなの金払って食べたくない」と嘆いたという逸話もある。会社組織もでたらめで、販売管理費が77年からの1年で27億円から80億円に激増するという異常事態も、誰にもチェックされることがなかったという。

資産もなく、キャッシュフローも極度に不足し、大部分の店舗は賃貸で担保もない......。メディアはこぞって「牛丼の時代は終わった」と報じ、すべての専門家は吉野家の再建に悲観的だった。

裁判所から選任された管財人らは、不採算店舗を閉鎖し、肉やタレの味を改善、コストを徹底的に削減するなど、倒産原因の除去に地道に取り組んでいく。あまりに絶望視されていたため、あきらめきった債権者が債務弁済を放置気味にして猶予してくれたことは幸いだった。そのうえで、店頭に「裁判所の保全命令により営業継続。一層のご支援を」と開き直ったポスターを貼り、苦しい中であえて値下げキャンペーンを1週間実施したところ大反響。客数にして32%増加し、期間中だけで3億円近くを売り上げた。泥舟から逃げるように社員が続々と退職(550人から250人に減少)したことも、人件費の大幅削減につながった。

そして83年、最終的にセゾングループが全面支援を決定。スポンサーによる資本注入で再建のめどが完全に立った吉野家は、その後も順調に債務を弁済し、7年間ですべての弁済を完了。会社更生法により本格的な再建を成功させた典型的な事例として、吉野家の再生物語は今も語り草になっている。

編集後記
吉野家もだいぶ回復した感がありますが、社長の努力はすごいものです。
倒産から危機的状況の対応まで、経営者とそれを目指す方は必読だと思います。安部社長は本当にすごい人ですね。

吉野家安部修仁逆境の経営学

吉野家社長安部修仁が主力商品・牛丼の消滅という危機をどう乗り越えたか、自らも経営幹部として体験した1980年の倒産からの再建を交えながら初めて語る。

不況に負けるな!大事なのは「強い思い」 倒産から復活のシュークリーム店

倒産速報 明日はわが身です。不況に負けるな!大事なのは「強い思い」 倒産から復活のシュークリーム店

会社の買収と倒産という2度の危機を乗り越え、元社員が復活させたシュークリーム専門店がある。新宿区の早稲田大学近くに7月にオープンした「Boon’s CREAM PUFF」(ブーンズ・クリーム・パフ)だ。年間1万5千件が倒産する大不況。井上常男社長(52)は「立派な経歴も学歴も必要ない。やるんだという強い思いがあれば、必ず再起できる」と胸を張る。

関西と東京でシュークリーム専門店を展開していた「芦屋タカトラ」の東日本営業統括部長だった井上さんが“最初の危機”に見舞われたのは2年半前。「原料が入らないことが何回かあり、ある日突然、会社が買収されてしまった」
1日100万円を売る行列店もあり、売れ行きは悪くなかった。ところが親会社の懐事情が悪化。買収後の今年2月、またも工場に卵が入ってこなくなった。

その日の夜、親会社に集められた井上さんら幹部社員は、「あすで会社は終わる。午後6時をもって従業員を即日解雇するように」と告げられた。
翌日、十数店で抱えていた社員やアルバイト約200人に事情を説明。そのほとんどは井上さんが採用した従業員だった。
取引先には謝罪の電話をかけ続けた。非難は覚悟の上だったが、取引先の一つ、三越恵比寿店は「再スタートするならうちとやろう」と励ましてくれた。

幸い経営陣でなかったため、会社の負債は抱え込まずに済んだ。井上さんは翌月、東京にいた元社員2人と新会社を設立。買収されてから原料の質が落ちていたが、「本当においしいシュークリームをもう一度作ろう」という井上さんの呼び掛けに、工場や店で働いていた従業員が一人、また一人帰ってきた。

解雇され実家に戻ったものの、井上さんから誘われて再び働き始めた増田裕美店長(22)は「周囲からはまたつぶれるんじゃないかと止められたが、新しいお店をやると聞いて、驚きとともにワクワクした」と振り返る。
ほどなく、三越恵比寿店に出店が決まった。それが資金借り入れ時の“実績”となり、念願の本店が7月にオープン。小さな喫茶スペースもある店内には、家族連れや男性客が多い。店名の「Boon」とは「愉快な」「楽しい」という意味。井上さんが仲間たちの顔を見ているときに浮かんだ言葉だ。

倒産から復活へ走り回った半年が過ぎ、師走のまちには派遣切りや就職難など暗いニュースがあふれる。仕事を失うつらさは痛いほど分かるが、あきらめてほしくないと井上さんは言う。
「頑張って出来ないことはない。必要なのはやるんだという強い思いです」

編集後記
一気に読めました。感心、納得する点が多かった。実践することは、難しいが、意識し続けることが重要なのだろう。

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高川学園:再生手続き終える 2010年春、中学定員増へ

倒産速報 明日はわが身です。

民事再生手続き中の防府市の学校法人・山口高川学園は2009年8月20日、東京地裁から手続き終結の決定通知を受けたと発表した。債権者との間で合意した負債約15億円を全額弁済し、再生計画認可の決定から3年が経過したため終結が決まった。

同法人の前身は、05年に経営破綻(はたん)し民事再生法を申請した多々良学園。06年7月に再生手続きが始まり、同地裁の監督下で同市台道の中高一貫校、高川学園(旧多々良学園高)を運営してきた。同学園では、来年の新入高校生の学費を引き下げるほか、中学生の定員を70人から120人に増やす方針。高川晶理事長は「保護者や生徒のニーズに迅速かつ柔軟に対応し、文武両道の学校づくりを進めたい」と抱負を語った。

高川学園高等学校・中学校は、山口県防府市にある私立の高等学校と中学校。設置者は学校法人山口高川学園。旧称は多々良学園高等学校(たたらがくえん こうとうがっこう)。

全国高等学校サッカー選手権大会の常連校として知られているが、2008年6月にサッカー部の白井三津雄監督が退職したと同時に多々良学園時代より15年続いた連続出場が途絶えた。

前身は1878年(明治11年)に山口県吉敷郡山口町(現在の山口市)に創立された曹洞宗山口専門学支校。曹洞宗の西日本における教化・僧侶養成機関としての役割を果たしていた。

1948年(昭和23年)、新制高等学校制度の施行に伴い多々良学園高等学校に改称。1956年(昭和31年)、独立の学校法人に改組。普通科全日制の男子校として整備された。曹洞宗の教育機関としての位置づけは変わらず、理事の過半数は曹洞宗の僧侶によって占められていた。在校生は仏教専修科を履修し定められた規律に従った寮生活を修めることによって、僧堂に準ずる修行歴の取得が可能であった。

2004年(平成16年)、防府市台道へ校地を移転し男女共学となった。 移転にともなう資金計画に問題があり経営破綻したため、

2005年(平成17年)、民事再生法を申請。私立高等学校を経営する学校法人としては初の申請となった。その後、徳島市を拠点に予備校を経営するタカガワが再建者となり経営譲渡された。

2006年(平成18年)9月、現在の法人名、校名に改称した。

2005年(平成17年)10月 - 学校法人多々良学園、民事再生法適用を申請。
2006年(平成18年)
 3月 - タカガワおよび学校法人中央学院と再建支援で基本合意。
 7月 - 再生計画を東京地方裁判所が認可。学校法人及び高等学校をタカガワが、付属幼稚園を中央学院が承継。
 9月 - 学校名を高川学園高等学校、設置法人名を学校法人山口高川学園に改称

2007年(平成19年)4月 - 中高一貫教育を開始、高川学園中学校が開校

2009年(平成21年)8月 - 民事再生手続終結



アキアの倒産から再起したバイ・デザイン鰍ノ再び

倒産速報です。東京都港区で大型液晶テレビなどを販売しているバイ・デザイン(飯塚克美社長)の倒産の噂が消えません。

バイ・デザイン鰍ヘ2003年に設立された大型液晶テレビなどを販売する会社です。 バイ・デザイン鰍フ飯塚克美社長は1949年生まれで、1987年に米デルコンピュータに入社。1988年に、デルコンピュータ日本法人社長に就任。

1995年にはデルコンピュータ株式会社(現・デル株式会社)を退職、アキアを設立。破格の低価格パソコンを発売、市場に旋風を巻き起こした。直販スタイルで一時期120億円もの売り上げを上げたが、参入したマックの互換機パソコンが同社創業者の復帰で販売できなくなったのがきっかけとなり、6年前、事業に行き詰まる。負債総額26億円。

アキアは失速し、飯塚克美氏個人も8億円の負債を抱えて2001年には社長を退任した。

2003年に飯塚克美氏はバイ・デザインを設立。自社での製造工場を持たず、アジア各地の協力メーカーに生産を委託し、また広告宣伝を自社ウェブサイトのみとすることでコストを削減している。大手テレビメーカーの垂直統合型に対し、水平分業型のビジネスモデルで成功している。

いわゆる激安薄型テレビで急成長を遂げている。実際に2007年には国内薄型テレビ市場で第7位にランクインし、年商150億円を目標にしています。

ただし、バイ・デザイン鰍ノは粗悪品が多いとの評判があり、アフターサービスでも劣悪であるとの指摘が以前からなされていましたね。

大手電機メーカーが薄型テレビの値下げを行っている中で、バイ・デザインは生き残れるか不透明ですね。

編集後記
46歳で日本楽器製造(ヤマハ)社長に抜擢、突然の社長解任。中内功の三顧の礼で、ダイエー副社長に。倒産企業・リッカーを再生させた男、河島博。全身全霊、24時間経営を考えぬいたビジネスマンの半生を描く、傑作評伝。

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倒産から復活して頑張っている茜丸の大納言

倒産していた茜丸が少しづつ元気を取り戻しているようです。2007年3月に「茜丸」ブランドのどら焼きで知られる菓子製造販売の大納言(大阪市天王寺区)は倒産しました。このときの負債額は約17億円でした。
 
大納言は1940年の創業で、倒産当時の北條勝彦社長自らがテレビやラジオに出演して商品を宣伝し、百貨店や駅のキヨスクの販売などでも知名度を高めた。ピーク時の2004年8月期の年商は、14億8300万円にのぼったが、その宣伝費や、工場の設備投資費がかさみ、資金繰りが難しくなったとか。

茜丸のどら焼きはすっごくバカでかい「どら焼き」で、あんこが五色なのでですね。大阪の「派手」を食べ物にしたような感じで、でも食べ応えはあるし、リーズナブルだし、キオスクで1個買いできるし、あちこちにバカでかい看板を出しているし、大阪人なら「ああ、あれか」とすぐにわかるはずでした。

2007年12月に民事再生計画認可がおりて、北條洋子氏を代表取締役社長として頑張っていますね。民事再生の申し立て以来、CMは中止していましたが、2008年12月にラジオCMを再開しています。

一時社長本人がテレビCMに出演して売上が急速に伸びた会社がいくつかありました。茜丸でも同じ手法を行ったのでしょうが、宣伝広告費が経営を圧迫させたとはちょっと考えものですね。

新しい社長が北條洋子氏となっていますので、元社長である北條勝彦氏の身内の方でしょうが、同じ失敗は繰り返さないようにしてこれから頑張って欲しいものですね。
日々の経営に行き詰まりを感じたり、ストレスがなかな取り除けないと思ってダラダラと仕事をしていませんか。
ときには、非日常を求めて、癒しを求めてちょっとだけ旅行でもしてみてはいかがでしょうか。