武田國男(1940〜)。昨年、会長職から勇退したばかり。なお同社では、彼の「武田家の社長は私が最後」との言葉に従い、役員の子どもを入社させない内規が設けられ、同族による経営を絶っている
武田薬品工業といえば、売上高1兆5383億円超(09年連結)を誇る日本有数の大企業。その成長の立役者として知られるのが、前・取締役会長CEOの武田國男氏である。
同社の前身は、初代・近江谷長兵衛(武田家当主が代々襲名する名前。のちに武田姓に改姓)が1781年に興した薬種商「近江屋」だ。大正時代から研究部門を開設するなど、製薬業の近代化に熱心であった近江屋は、1921年に株式会社化し、『ボラギノール』などのヒットでぐんぐん業績を伸ばした。
武田家は人材の宝庫として知られ、五代目・武田長兵衛は「大阪商人の手本」といわれる商才の持ち主。六代目は『アリナミン』の開発で膨大な利益を会社にもたらした。
が然、七代目にも期待が高まったことは想像に難くないが、襲名が決定していた時の武田家長男がジョギング中に倒れ、46歳の若さで逝去。同社のトップはその後、四代にわたり武田家以外の人間が務めることになる。
國男氏は六代目の三男坊として1940年に誕生した。稼業は長男が継ぐもの…という当時の風習にすねたわけではないだろうが、大学時代は授業にもろくに出ず、日がな一日パチンコ三昧。周囲から異端視される存在だったという。
卒業後は武田薬品工業に入社するも、創業家一族の者でありながらメインの医薬品事業からほど遠い部門に配属され、陽の当たらない20代を過ごすことに。つまり一族の厄介者として煙たがられていたようだが、これはむしろ、社内の体質や仕組みを俯瞰(ふかん)するのに良いポジションだったようだ。彼はのちに、自社が“大企業病”に陥りつつある様子がよく見えたと述懐している。
國男氏が社長に抜擢されたのは、93年のこと。ここで、不遇の時代の経験が開花する。実父が手がけた化学、食品、畜産などの事業をとことんテコ入れし、医薬品事業への「選択と集中」を推進。不採算部門を大胆に切り落とし、全社的に目標管理を重視した評価制度を導入するなど、それまでに目に付いた弱点の解消に乗り出した。
その結果、会社は最高益を更新し続け、社長9年目となる02年3月期には売上高1兆円を達成(連結)。ついには海外のメガファーマ(巨大製薬会社)と渡り合える大企業に成長させた。
とくに、上司に取り入ることで派閥めいた人間関係が生まれることを嫌い、「人間のヘドロを徹底的に切り崩したろ」と、32人いた役員をたった2年で21人に減らす必殺の仕分けぶりも見せた國男氏。これはもはや、痛快というほかない。
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