百円の客より一銭の客が大切 百貨店のさいか屋(神奈川県川崎市川崎区) 2/2

しかし、一面なかなか思いやりの深い面があって、正月や盆休みなどには、自分が先に起きて台所の仕事まで手伝い、店員を遊びに出してやったり、羽織を許すときなどには店員に、「自分の好きな良い品を選べ」といって自由に選択させたりしたという。
また、料理を作ることが大変大好きで、魚などは自分で選び、これを料理して全員にふるまったこともしばしばあったという。
このような伝兵衛が残した商訓は次のとおりである。

1、商いはいわゆる「あきない」であって、倦まず飽きず根気よく勤めなければ成功しない。人間の運勢などというものは不断の努力があって、始めてよい運命が向こうからやってくるものである。(これは、一挙に発展を賭けるという商いよりも、コツコツと地道に商いに勤めることが、いわゆるあきないの真髄であることをうたっている。)
1、百円のお客様よりむしろ一銭の客様を大切にしなければいけない。百円買うお客様は優遇されることとなるが、とかく少額のお客様は粗末になりやすく、またお客様の方でも遠慮がちであるから、一層心を使わなければいけない。

このように顧客に対してはどこまでも、良い品物を責任もって販売していたのが信用の源となったのであろう。
時代の推移とともに営業のやり方、金銭の単位、接客応対法はいろいろと変わっていくことがあっても、根本において伝兵衛の精神は生き続いているはずである。

どこで歯車が狂ったのかは分かりませんが、原点に戻って再建されることを祈っています。

現場発CSR優良企業への挑戦

百円の客より一銭の客が大切 百貨店のさいか屋(神奈川県川崎市川崎区) 1/2

2009年8月4日に事業再生ADRを行った百貨店のさいか屋ですが、立派な商訓があったのです。
立派な商訓を生かしきれなかったのか、商訓が時代にあわないところがあったのかを考えて見たいと思って紹介します。

わが国の百貨店は、江戸時代の呉服問屋から発生した。創業期をみると松阪屋が慶長16年(1611年)、越後屋(後の三井呉服店、三越)が延宝元年(1673年)、大丸が享保2年(1717年)、高島屋が天保2年(1831年)といったところである。
これらは、いずれも大都市を基盤にしている。
これに対して、明治5年(1872年)10月創業の「さいか屋」は、横須賀市大滝町を発祥地としています。

店祖の岡本伝兵衛が、25両を元手に横須賀で独立し、屋号を「雑貨屋(さいかや)」と称した呉服唐物商を開業したのに始まります。
伝兵衛は、常に商売専一に努力することをモットーとして終始一貫した。言行については、一言に云えば勤倹力行に尽きるといってよい。

朝は店員よりも早く起きて表の掃除をし、夜は夜で店員より遅く、店内の見回りをすませて床に入るという具合だった。
したがって頑固一徹な面もあり、店員の躾にはとくに厳格で贅沢は大嫌い。
いわゆる昔気質の人であった。

起業と倒産の失敗学

権力にくみせず一業に徹す 薬のういろう(小田原市・本町) 1/2

中国元帝に仕えた先祖
「東海道中膝栗毛」でおなじみ、弥次さん北(喜多)さんが、小田原宿の名物ういろう店近くになって、
北「オヤ、ここは屋根までくまひくま(デコボコ)のある内だ」
弥次「これが名物のういろうだ」
北「オヤ、餅かと思ったら薬だな」
と、ご両人が驚いたという店が、いまも同じ場所にある小田原市本町1丁目の「ういろう」だ。

600年の伝統ある老舗で、代々、藤右衛門を襲名している。
外郎(ういろう)家の祖先は、陳延祐といい元帝に仕えて礼部員外郎という役人であった。室町時代に移るころ、陳延祐の子、宗奇は将軍足利義満の命を受け、明国へ使いをしたとき、陳家の家伝・仙薬霊宝丹を持ち帰ったが、これの効能がすぐれていたので、当時の貴族は珍重し、冠のなかにしまって常備薬とした。
頭の冠を透して香りが漂う。というので、後小松天皇が「透頂香(とうちんこう)」と名付けたそうである。

また宗奇は朝廷に仕えて外国使節の接待用に、モチ米を蒸し、糖蜜や黒砂糖でこね、菓子を造った。
これが名古屋にある「青柳ういろう」で、大正4年(1915年)に売り出されたのが始まり。
小田原の「ういろう」にもある。

5代定治は永正元年(1504年)、小田原城主・北条早雲の招きで小田原に移り、現在地で八ツ棟造りの屋敷を構え、医薬を業とした。
以後、代々北条氏に仕え、小田原の代官、宿老、奉行となった。

人は持ちつ持たれつの経営哲学 百貨店の伊勢甚(水戸・泉町) 2/2

5代目甚助は、伊勢甚中興の祖といわれた人物で、進取の気象に富み、誠実、質素を旨とし、堅実な商法を貫き、明治になってから伊勢屋を現在の「伊勢甚」と改めている。

明治27年(1894年)5月14日、甚助は、番頭の理助に伊勢甚の家法である「世の中は丸く丸くと云い伝う人見の人ぞ誠なりけり」と書き、のれん分けを祝って贈っている。

江戸時代からの水戸の商家は、現在まで廃業したり、他所に移ったりして昔からの同じ場所で、のれんを誇っている商店はごく少ない。
その中でたった1軒、伊勢甚が長い年月の風雪に耐えて、のれんを守り、今日も水戸の中心街の泉町に、その威容を誇っていることは、まさに水戸商業史の上でも特筆すべきことである。

しかし、のれんを誇る伊勢甚は新たな流通変革を先取りして、より一層の発展を目指すため、昭和52年にジャスコ鰍ニ合併してできた新法人が現在の活ノ勢甚および活ノ勢甚チェーンである。

伊勢甚は百貨店を経営し、伊勢甚チェーンはチェーンストアとショッピングセンターを経営しております。
そして「商業を通じて地域社会に奉仕しよう」を社是とし、「企業はひとなり」の経営哲学を理念とする人事政策の基本には、つぎの人事5原則がある。
1、公正
2、人間尊重
3、変化即応
4、合理性
5、能力開発

人は持ちつ持たれつの経営哲学 百貨店の伊勢甚(水戸・泉町) 1/2

町人の金力がものいう時代
活ノ勢甚(茨城県水戸市泉町1丁目)の前身である呉服太物店の伊勢甚が、伊勢屋甚助によって創業されたのは、今から290年ほど前の享保8年(1724年)11月1日のことであった。

そのころは、八代将軍徳川吉宗の享保の改革が進んでいた時代であり、水戸藩でも親藩とあって、その影響を色濃く受けており、4代藩主徳川宗堯によって改革が行われようとしていた。
したがって、水戸城下町の商業もさっぱりふるわず、藩財政も「天下の副将軍」といわれた、黄門の光圀時代の名声がやたらに残っているだけで、財政は火の車、武士の生活はピィピィで、次第に町人の金力がものをいうようになった頃であった。

伊勢屋甚助の眼にはそれがはっきりと映じたことであろう。
甚助の父は佐竹家の家臣で、甚助はその2男であった。水戸城下に出て、上金町の呉服太物店、伊勢屋次郎平に奉公に上がり、この店で25年間勤めたのち、若干の資本を元手に、のれん分けしてもらって、「人」という字を商標にもらった。

世の中は持ちつ持たれつで、支えあい、助け合い、協力しあっていかなければならない。
そして、それを成し遂げるには心の和が必要だ。
つまり、共存共栄の精神であるが、それが伊勢屋から今日の伊勢甚へと受け継がれた。

老舗に伝わる「戦陣訓」 いかの塩辛の小田原みのや兵衛(神奈川県小田原市・成田)

参勤交代の土産物に
日本人がいつごろから漬物を作り始めたかははっきりしないが、はるか昔のことであろう。
それぞれの地方に産する野菜類や木の実を漬物として蓄えたのは生活の智恵であった。
それらは地方ごとに特色ある味わいを持ち、その中でも風味をさそうものが今日の名産となって残っている。

その漬物の老舗といってもよいくらいののれんの古さを誇る、株濃屋吉兵衛商店(本社:神奈川県小田原市成田944−6)は創業が450年前の北条時代で、現社長は鈴木吉兵衛です。

初代の吉兵衛は美濃国(岐阜県)の生まれで、当時の新興都市の小田原へ下り、時の城主北条氏康のすすめで、小田原在の下曽我に土地を広く買いあさり梅樹を栽培することになった。
吉兵衛がなぜ小田原でわらじをぬいだのかは分からないが、そのころすでに盛大な薬舗を張っていた小田原外郎(ういろう)の祖外郎藤右衛門定治に何かと助力を受けたらしい。

吉兵衛はそのつながりを深く感じ、外郎家が玉伝寺(小田原市・城山)を開基して外郎家の墓所ができると、吉兵衛もそのそばに墓をたて、子々孫々までの墓所とした。

吉兵衛は筋違橋(現在の小田原市南町)に開業し、出身地をとって「美濃屋」と称した。吉兵衛の作った梅干は有名になり、江戸時代になって、参勤交代の諸大名は小田原の宿を通過するたびに国元へのみやげとして、美濃屋の梅干を買い求める習慣になった。
また、箱根越えの旅人の渇きをいやし、弁当の腐敗を防ぐためにも重宝がられた。

美濃屋のもう一つの名産は「いかの塩辛」である。5代目吉兵門のときからというから、江戸時代初めのことだ。
相模湾一帯にイカの大群が押し寄せ、毎日大漁続きに相場は大暴落して漁師たちはその処分に困った。
それを吉兵衛は大量に買い取って、とりあえず塩漬けにして保存し、考えたあけく糀(こうじ)を混ぜ、食べたところ、まことに風味が良かった。
これが小田原名産「いかの塩辛」のはじまりである。

老舗には、それぞれ永い歴史を支えてきただけに何かその店特有の「戦陣訓」めいた「定め」があるものだ。
美濃屋には初代から伝わった家憲に「定、一金小判六〇匁銭時の相場、一切掛売り仕らず候:と大きなケヤキ板に書かれた「定」がある。
今でも、この伝統を守って、現金取引を行っている。
昭和57年(1982年)9月14日、美濃屋は、特産のいかの塩辛、梅干、かまぼこを皇室へ献上する栄を賜っている。

人事に私情を混じえず 醤油のキッコーマン(千葉県野田市)

350年余り前に生産を始める
千葉県野田市は古くから野田醤油で名高い醸造地として有名である。その歴史は古く、今から約450年前の永禄4年(1561年)に、同地の飯田市郎兵衛が、甲斐武田氏に醤油を送っている。
「川中島御用溜醤油」と呼ばれていたという。
そして、寛文元年(1661年)に高梨兵左衛門が、醤油醸造を開始、翌2年には茂木七左衛門が、味噌醸造を開始し、のち醤油に転じている。

いまのキッコーマン(千葉県野田市野田)の前身は、大正6年(1917年)10月19日に創立された野田醤油であり、野田で醤油を醸造していた茂木、高梨一族8家が合同してできた企業である。

そのキッコーマンの経営理念の中には「創業の精神に学ぼう」という、いわば創立者の茂木家の家憲経営が、そのままの形で脈々と受け継がれている。その中から、現代経営に参考になるものを挙げてみよう

1、徳は本なり財は末なり本末を誤ることなかれ。貧富によって人を上下することは最も戒む可きことなり
2、事業の根本は人にあり、任免は私情を雑へず、適材を適所に置く可し。業に従う者を敬愛し、その心を安んずることを以って念とせよ。
3、質素勤倹は祖先依頼の美徳なり。各其分に応じて躬行実践す可し。
4、額に汗して得たるものに非ざれば真の所得にあらず。投機はもとより、醇風美俗に反し、又は他の弱みに乗ずるがごとき事業は、これをなすことなかれ。
5、競争は進歩の要因なれども、極端にして悖理(はいり)なる競争は之を避け、衆と共に栄えむことを努めよ。
6、新たに業を起こさんとするときは、よろしく同族と相謀り、必ず独断をもってすることなかれ。損失なきは利益の最大なるものと知るべし。

始祖の創業から数えて350年の時間の長さと困難に満ちたプロセスと、同時に、会社創業の時代において、最高水準の経営規模を誇っていた企業としての自負とが、これらの家憲の背景に汲み取ることができる。

⇒楽天市場で紹介されているキッコーマンの商品

いつも温顔でお客に接する 酒造の釜屋(埼玉県加須市騎西町)

優秀な酒米と水に着目
滑屋が、武蔵野の田園に囲まれた埼玉県加須市騎西町で産声をあげたのは今から264年前の寛延元年(1748年)のことである。
当時、中仙道沿いに京紅や織物など行商していた近江・日野商人、小森新八が、豊かな武蔵野の穀倉地帯の優秀な酒米と、近くに流れる利根川の清冽な流れに目をつけたその眼力が、今日の銘酒「力士」を生む一つのきっかけになったと思われる。

その新八が書き残した「家法書」は次のとおり。
「商品の仕入れをおろそかにすることなく、良質の品を薄利で売ること、そしてお得意様の信用を得ることが家業を永続きさせるゆえんである。」
新八が行商をした中仙道は、僻遠の地であり、そこへ上方地方の文化度の高い、珍しい品物を持ち込んだから、土地の人々に喜ばれたこと。

また、他国の商人が出入りしない山坂、峠路の多い地を選び、不足の物資を供給するといった、奉仕の精神に生きた堅実な商人の道を掟としてことが「家法書」からもはっきりと読み取れる。

そして新八は、自分のことを行商人と名乗って商売をつづけているが、この事実の中に、彼が単なる金儲け第一主義の商人ではなく、自分の仕事に使命感を持ち、誇りを持って行商に従事していたことを読み取ることができるのである。

7代目小森久左衛門は、滑屋を今日の盛業へ導いた商傑である。
彼の経営信条は、「事業は人の和で成り立つ」。
「常に人を粗末にしない。物を粗末にしないという念は人一倍強く、人を観る目はきわめて鋭く、従業員に対しても、どの人間にも必ず長所はあるものだから、それを早く見出してその長所を得させるのが経営者の責務である」として、よく面倒をみたという。

また、商売については、「商売とは金を儲けることであるというのは、そのとおりであるが、年がら年中目に血走らせることが決して商売の道ではない。”笑う門に福来る”の諺にもあるように、売ってやるとは考えないで、あくまで買っていただくという心のゆとりをもって、いつも温顔でお客に接することが大事である」と教えた。

現在、多くの人々に知られ、親しまれ、そして愛飲されている清酒「力士」の醸造元「釜屋」には、近江商人釜屋新八の大きな遺産が今も脈々と流れており、また、永く継承されてゆくものと思う。

⇒楽天市場で紹介されている滑屋の清酒
日々の経営に行き詰まりを感じたり、ストレスがなかな取り除けないと思ってダラダラと仕事をしていませんか。
ときには、非日常を求めて、癒しを求めてちょっとだけ旅行でもしてみてはいかがでしょうか。