”現金掛値なし”の創業者精神 カツオぶしのにんべん(東京・日本橋)

”現金掛値なし”の創業者精神 カツオぶしのにんべん(東京・日本橋)

日本の味を伝える
カツオぶしの老舗「にんべん」(東京・日本橋室町)の創業は、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りをしたときから遡ること3年、元禄12年(1699)のことである。
初代高津伊兵衛(代々襲名)が伊勢国(三重県)四日市から、弱冠13歳のとき、江戸に出て油屋という雑穀商に奉公。20歳で独立し、日本橋四日市土手蔵においてカツオぶしの商いを始めたのが起こりである。

以来、今日まで幾多の経済変革、天災、人災を乗り越え、310年の長い間にわたり商いを続けてきた。現在の「にんべん」の使命感は「日本の味を伝える」であって、その企業の原点になっているものに、次の5つの誓いがある。

1、基本姿勢 創業精神を忘れることなく信用第一とし、社会のニーズに対応できるよう行動します。
2、商品づくりの原点 品質本位をモットーとした「にんべん」の名に恥じない伝統の味づくりに日夜努力します。
3、顧客への態度 常に顧客の立場に立って、真心をもって応対し「のれん」の満足感を味わって頂くよう致します。
4、チームワーク 全社一丸となって企業イメージ向上のため相互に能力開発に努力、目的を達します。
5、自己啓発のポイント 伝統ある日本の味を伝えるためプロ意識に徹し、毎日の鍛錬と自己管理に務めます。

となっている。これらについて現社長は
「企業にはそれぞれ使命感というものがあって、単に歴史が古いというだけでなく、もう一度、原点に基づいて、うちの商売が続いてきたのはなぜか、ということを見直そう。
またカツオぶしとは何かという、言うなれば商品の原点をみつめたときに、古来からの味だからこれを伝える義務がある。」

というのだ。そして前出の創業者精神とは、初代が越後屋呉服店(三越の前身)とともに、商業史上革命的ともいわれた”現金掛値なし”の商法を断行したことである。
今でこそ珍しくもないこの商法も、当時は非常に革新的なもので、たちまち江戸中の信頼と好評を集め「にんべん」繁栄の基礎を築いた。

江戸時代にあったボーナス 寝具の西川(東京・日本橋) 2/2

一朝有事に備え積立金
その一つは「除金(よけぎん)」といって、各店の純益を積み立てておく制度。もう一つは、所有している土地・貸店の地代を積み立てておく制度である。
この積立金制度を整理したのが、7代目による寛政11年(1799)の改革であり、これを定めた「定法書」には次のように記されている。

1、先年までは、近江八幡から江戸に来た商人の店は14軒もあったが、商売の状態や採算が色々と変わり、人気も同じように変わって、いまでは5軒に減ってしまった。
これではなんとも先々がおぼつかないので、掛け屋敷(貸店)を買い求めておいた。これとても遊金(積立金)がなくては、火事で類焼した場合普請の手立てがなく、地代・家賃の上がりもなくなって内々の入用ばかりかかり、ついには人手にわたるのも道理である。
よって各店や本家の長久のために「三法(普請金・仏事金・用意金の三つの方法)」を決めた。
その趣旨は、次の通りである。

1、普請金の方は、大坂の前銀(大坂で商品を仕入れるさい金額の2分を差し引いて積み立てるもの)の利子をもって、出金するようにすること。江戸両店の類焼普請にあてるために、三百両は遊金(積立金)を用意しておく。

1、仏事の方は、持分の地代によって行い、仏事帳定めの通りに勤めること。なお、類焼したときの用意として、二百両遊金(積立金)があるようにしておくこと、。

1、用意金のほうは残しようもないから、掛け屋敷(貸店)を普請金としての用意三百両。そのうえ本家の異変があったような場合の用意として、追々に遊金(積立金)をしておくこと。

1、遊金(積立金)が、まとまってできたならば、田畑屋敷などの本家財産になるようなものを調えておくこと。余分の現金をおくことは無用のこと。

とあって、これまであった積立金を充実し、制度化したものである。積立金の資金と用途を明確にし、普請金、仏事金、用意金の3つを区分したこの制度の眼目は、火事による類焼のさいの再建資金を確実に備えることであり、このために、地代、純益の一部を普請金、仏事金、用意金とよんで、直接営業につぎこまないで、遊金として積み立てておこうというものである。

しかも、この遊金自体も確実な担保をとって貸し付けておき、その元利が一定額を超えれば、土地、屋敷をさらに買い入れてゆく。
一言で言えば、今日の保険会社と被保険者との2役を、同時に行うものであって、頻繁に起こる火災に絶えずそれを備えなければならなかった当時においては、まさに一石二鳥も三鳥もねらった名案であったといえよう。

7代目の果たした改革の第二は、三ツ割銀の制度である。従来の店の利益配分を改めて、毎年二勘定(決算)の純益を三等分し、その一つを奉公人に配分することにした。
これによって、各店の奉公人が精を出して働けば、店の利益も上がり、それに応じて三ツ割配当も増えるわけであるからいっそう店員はハッスルするようになったのである。
つまり、財務管理ならびに労務管理の方法として重要な意味合いを持っていたものであり、西川ではこれらのシステムを今でも採り入れて、企業の存続と繁栄をはかっている。
とにかく200年以上前に、現今のボーナスシステムを実施した7代目の経営手腕には驚嘆せずにはいられない。

江戸時代にあったボーナス 寝具の西川(東京・日本橋) 1/2

江戸時代にあったボーナス 寝具の西川(東京・日本橋)

近江蚊帳を創り出す
寝具の西川(東京都中央区日本橋)の創業は古く、始祖仁右衛門が近江国で蚊帳販売を始めたのは永禄9年(1566)、今を去る446年前のことである。
西川家ではこの年をもって創業の年としている。そして日本橋に江戸店を開業し、蚊帳・畳表を扱ったのが元和元年(1615)であった。

2代目甚五郎は、蚊帳について種々研究を重ねた結果、寛永の末ごろ(1634)、生地に萌黄(もえぎ)色の染色をほどこし、縁に紅布をつけ、後年近江蚊帳の特徴とされた萌黄蚊帳を創案したと伝えられる。

7代目利助は、家業の発展をみちびた西川家代々ならびに奉公人に対して、深厚な感謝の念を抱き、仏事を鄭重にする精神家でもある。
彼の主な業績の第一号は、積立金制度の改革である。
そのきっかけは、江戸店が火事や地震による被害を何度も受けたからだが、当時は保険制度もなかったから、西川家ではその不時の出費に備えて、江戸時代の中期までに、積立金制度をととのえてきた。

自然に儲かった素人商法 パンの中村屋(東京・新宿)

自然に儲かった素人商法 パンの中村屋(東京・新宿)

商売は正確・正直なり
明治34年(1901)12月13日、相馬愛蔵・黒光夫妻が初め東京・本郷の東京大学赤門前にパン屋を創業した。

この中村屋の創業者、相馬愛蔵は明治3年に信州穂高村で、代々庄屋を務めた相馬家の三男として生まれ、松本中学を卒業して、早稲田大学の前身である東京専門学校に学んだ。
在学中にキリスト教の洗礼を受け、信州に帰郷して養蚕業に手をそめながら、伝道を助け、禁酒禁煙運動や孤児院に対する募集運動を行ったりした。
それが縁で、クリスチャンの星良(ほしりょう、のちの相馬愛光)と結婚、妻と共に明治34年に上京した。
サラリーマンをきらって、夫妻で、本郷森川町のパン店中村屋を譲り受けたのである。ときに愛蔵32歳、黒光26歳であった。

東京一の小売店王国
商人となれば頭が高くては1日もつとまらない。ところが商売のイロハも知らなかった書生上がりの2人が、やがてデパートを除くと、日本一といわれた小売店王国を築き上げてしまったのである。
その秘密は、中村屋の商法が全く当時の商家の伝統を無視した、次のように独創的なものだったことである。

1、素人ゆえにコツなんていうものは全然知らない。それゆえ本格的な商人を真似せず、一切独創的に思いつくままの仕事ですることに迷いがなかった。
1、いつ如何なる場合でも正しきところに立ち、商人として充分お得意の立場にもなって、なるべく薄利で商うようにすれば、志あれば道ありで、自ら如何にすべきかを会得することができる。

つまり「金を儲けようとして商売をしなかったが、自然に儲かってしまった」ということが唯一の繁盛した秘密かも知れないということである。
現在、本社のほか東京・渋谷、神奈川県海老名市、埼玉県久喜市、茨城県牛久市の4ケ所に工場を有し、国内に3400余の直営店および特約店がある。

商いの基本は人間関係の円滑化 菓子の虎屋(東京・赤坂)

商いの基本は人間関係の円滑化 菓子の虎屋(東京・赤坂)

昭和56年にはパリ店を開設
菓子界の大御所、褐ユ屋(東京都港区赤坂4丁目)の創業は誠に古く、桓武天皇の平安遷都に従って奈良から京都に移ったと伝えられているが、関が原の合戦に石田三成軍に参加した故、徳川の天下となってからは世をはばかって由緒を不明にしたものか、それ以前の文献は残っていない。
その名跡を継いだ寛永12年(1635)に没した黒川円仲が中興の祖とされてる。

明治2年(1869)、12代黒川光正のとき、東京遷都に伴い上京、はじめは銀座にいたが、のち、赤坂に本拠を構え、宮内省御用達を代々務め、虎屋羊かんで名高い。銘菓”夜の梅”は国内のみならず海外にも知られており、昭和56年12月にはパリ店を開設、世間を「あっ」といわせた。

礼儀正しい店員教育
このように古くて新しい虎屋には文化2年(1805)に制定された、次の「掟書写」がある。

1、お得意様には丁寧に接すること。また、お得意様を訪ねたときは、長話をしないで早く帰ってくること。(お客様第一主義の精神が貫かれている。)
1、御所様をはじめ、町の御得意衆はもちろん、出入方のもの、一家中のものでも非礼粗相がないよう互いに気をつけ合うこと。また、道で出会った場合でも丁寧に挨拶をせよ。
1、お使いに来る相手方から世間の噂話などを話掛けられても、こちらからそれに相槌を打ったり、話に乗って行くことは決してしてはならない。
また、子供や女中方であっても、てんごう口をたたいてはならない。ことさらに親切、丁寧な応対をしなければならない。
1、上に立つ者は下の者を教え、下の者は上の者の誤りを発見したら遠慮なく意見を言うこと。そのためにも店の者はすべて水魚の交わりを心がけよ。

上下のコミュニケーションを円滑にしている。この原点がいまも「虎屋の店員は礼儀正しい」と、人々にほめられているゆえんであろう。
つまり、商いの基本と人間関係の基本が示されている。

売れ残らぬものは良いもの 組紐の道明(東京・上野) 1/2

皇后、皇太子妃にご教授
「ですから、見えないところに資本がかかります。普通は1本の紐の基準は10匁ですが、私どもでは12匁の糸を10匁に見せる。その辺が外見ではわからない。どこかが違うというのでしょう。」

「うちの販売の特徴は、まず宣伝をしないこと。それは宣伝をすると一人よがりになるからです。つまり自分たちの腕で売れているのか、宣伝で売れているのかと。売れ残らないものは良いもの。じゃあ、自分はどいうふうに造っていくかといえば、要は売れ残りを作らなければいいんですよ。
売れ残るから宣伝をするのではいけません。ですから、うちでは決してむりをしない。これは借金をしないことにつながります。
借金がないから倒産するわけがない。」

「うちは、むしろ不景気になると伸びるんです。とくに3、4月といったら。ご飯を食べるひまがないくらいでしてね。家訓といえるかどうかわからないと思いますが、先々代から教わったことは”美しいものを探せ”そして見つかったら”みんなに知らせる義務がある”でした。
昔の職人は、うちは違うんだと隠すんですね。糸でも、染でも自分たちはこうやっているんだ、こうやれば良い物ができるんだと、みんなに言えば作る。そのあとみんなが働けばよい。”美しい”ということはそういう意味合いもあるんです。
ところが、うちのはすぐ真似されてしまう。そこで、次の”美しいものを探す。」

現在、道明の組紐は宮内庁、各宮家などへも納めており、皇后陛下、皇太子妃、常陸宮妃に組紐をご教授している。

売れ残らぬものは良いもの 組紐の道明(東京・上野) 1/2

売れ残らぬものは良いもの 組紐の道明(東京・上野)

12匁の糸で10匁に見せる
東京・上野池の端仲町通りに、組紐の老舗「道明(どうみょう)」がある。創業は江戸前期の承応2年(1653)。
徳川の直参旗本の家から出た初代の越後屋新兵衛は組紐をおこし、鎧、刀、馬具、弓具などの武具紐を組んでいた。
明治以後は帯締め、羽織の紐など、組紐は女性の装身具として生まれ変わった。

「御組紐司」と黒生地に白抜きされたのれんをくぐると、ほのかに脂粉の香りが漂う。
座売り形式で、上がりかまちに朱塗り箱が並べ置かれている。中には水あさぎ色、とき色、朱、素紺、錆朱、うぐいす色など、深みのある美しい色とりどりの帯締めがきちんと納まっている。

客は畳の端に腰をかけ、目を楽しめてもりながら、いつの間にか出されたお茶をすする。そうして、新調した着物の話などを店員とかわしつつ、好みの1本を選び出す。
組紐を作るうえで考えることは、まず材質である。もちろん絹だが、絹糸といっても加工のうえでいろいろな方法があり、等級は最高級のものでなくてはいけない。
要するに、揃った糸、光沢のあるものをよるのだが、できるだけ見た目には映えないようによること。
分かり易くいうと1キロの糸が1キロに見えないように、かさが800グラムとか少なく見えるようによっていく。
だから、道明の組紐はそれだけ丈夫なもの、つまり重味が出てくるのだ。

お客に上下つけぬ心構え 食品の国分(東京・日本橋) 2/2

お客に上下つけぬ心構え 食品の国分(東京・日本橋) 2/2

が、幕末に至って、土浦藩や鳥羽藩に貸し付けた多額の金が焦げ付き、一時は倒産一歩手前まで追い詰められたこともある。
明治以後は、味の素、カルピス、エビスビール等の販売を手がけ、さらに缶詰にも進出するなど事業を拡大、現在では食品会社の大手になっていることは周知のとおりである。
日本橋西河岸沿いにあったレンガ造りの古い国分商店の建物は、日本橋名物の一つであったが、昭和50年、8階建てのビルに生まれ変わった。

こうした290年の歴史をもつ国分の家訓は、明治15年(1882)に長い間、商売を続けてきた体験から、自然発生的に成り立ったものである。
その中から現代経営に役立つ項目をいくつか列記してみよう。
1、商売体の儀は醤油、味噌、和洋酒、缶詰、空樽空瓶のほか、たとえ利益に相成りとも、決して見かけ商を致すましきこと。(これは祖業第一主義を遵守し、見かけが良い商いはしないことを戒めている。)
1、各取引先に対しても粗略の挨拶をしないこと。たとえ樽買い衆に対しても同様のこと。(各取引先に対しては投げやりの挨拶をしてはならない。たとえ空樽を買いに来る人でも客であるから同じようにちゃんと挨拶をするように。)
ということであるが、お客に上下をつけない心構えが国分の永続につながっているのではなかろうか。

お客に上下つけぬ心構え 食品の国分(東京・日本橋) 1/2

お客に上下つけぬ心構え 食品の国分(東京・日本橋)

関西醤油を圧倒した亀甲印
創業者は、伊勢国、現在の三重県松阪市の一部にあたる射和(いさわ)村の国分家。元禄年間(1688〜1704)に江戸に進出、日本橋周辺に店を出した。
当初どのような商売を始めたかについては2説ある。食料品店だったというのと、呉服両替商だったという説があるが、くわしいことは不明。

現在の国分梶i東京・日本橋1丁目)は四代勘兵衛宗山が正徳2年(1722)、常陸国土浦(茨城県土浦市)に醤油醸造工場を設けたのに始まる。
五代勘兵衛の宝暦6年(1756)に日本橋本町の店舗を、現在の西河岸沿いに移転するとともに、土浦で醸造した醤油に亀甲のマークを使って江戸市中に売り出した。
当時、江戸の醤油市場は関西醤油に圧倒されていたが、国分商店の醤油は品質、味ともにすぐれ、商売は大いに繁盛した。
しかし、「火事は江戸の華」といわれたように、同店は弘化3年(1846)の大火事、安政2年(1855)の大地震、慶応2年(1866)の火災などの地災、人災に遭ってはいるものの幸い、被害は屋台骨をゆるがすというほど決定的なものではなかった。

独特な四つの幸福、四つのテキスト パンの木村屋総本店(東京・銀座) 2/2

独特な四つの幸福、四つのテキスト パンの木村屋総本店(東京・銀座) 2/2

このような木村屋の事業の目的として、次のとおり、「四つの幸福」がある。
1、お客様の幸福(お客様に美味しく食べて喜んで頂き、心身共に健康な身体になって頂くことである。)
2、パートナーの幸福(パートナーの人が喜んで商売が出来、共存共栄が図れることである。)
3、従業員の幸福(従業員が勤労の喜びと物質的喜びを得られることにより、個人の精神的幸せを得られることである。)
4、会社の幸福(お客様とパートナーと従業員の幸福を造る種子をまく畑が、豊かに広がって行くことである。)

次いで事業の目的として、次の「四大目標」がある。
1、最高製品
2、最高サービス
3、最高能率
4、最高賃金
そしてさらに、「四つのテスト」は次のとおりである。
1、それは本当にお客様の幸福になることか。
2、それは本当に従業員の幸福になることか。
3、それは本当に会社の幸福になることか。
4、それは本当に自分の幸福になることか。
すべての判断は、これらに照らしてやろう。
である。
これら「四つの幸福」「事業の四大目標」「四つのテスト」を会社一丸となって推し進めている木村屋総本店である。
日々の経営に行き詰まりを感じたり、ストレスがなかな取り除けないと思ってダラダラと仕事をしていませんか。
ときには、非日常を求めて、癒しを求めてちょっとだけ旅行でもしてみてはいかがでしょうか。