創業100年超の県内企業635社 老舗企業調査 茨城

民間調査会社、東京商工リサーチ水戸支店がまとめた県内「老舗企業」調査によると、県内で創業100年を超えた企業は635社あることが分かった。業種別では、(1)清酒製造業28社(2)ガソリンスタンド23社(3)肥料・飼料小売業20社−が上位を占めた。100年前にはなかったガソリンスタンドが上位に入る意外な結果だが、同支店は「炭、木炭など燃料関係の業態だった企業が戦後になって石油を扱い、現在はガソリンスタンドとして営業している企業が多い」と説明している。

県内最高齢は平安時代後期の1141年創業、笠間市の清酒製造業「須藤本家」。(2)1600年、常陸太田市の医薬品小売業「川又薬局」(3)1603年、常陸大宮市の清酒製造業「根本酒造」(4)1605年、水戸市の郵便局受託業「加納商店」(5)1607年、同市の燃料小売業「笹島商店」−と続く。

また、創業100年以上の長寿企業の中では、筑西市の石油卸売業「関彰商事」(1908年創業)が売上高1位だった。

編集後記
老舗企業というのは、先祖伝来の商売や製造方法を守りながらも少しづつ時代に合わせて変化させているようですね。
羊かんで有名な虎屋も微妙に味が変化しているという話を聞いたことがあります。

関彰商事も石油卸売業が主事業でしょうが、プロパンガス・タイヤ・冷暖房機器・住宅・情報事務機・ホンダ車・携帯電話・BMW車・クライスラー車・レンタカー事業などなど手広く行っています。
売上高は1,650億円で、従業員は1,800名です。

【送料無料】老舗の訓人づくり [ 鮫島敦 ]

【送料無料】老舗の訓人づくり [ 鮫島敦 ]
価格:777円(税込、送料別)





四国老舗企業調査:創業100年以上は1170社−−四国4県 /四国

香川401社、愛媛363社、徳島233社、高知173社
四国内で創業100年を超える老舗企業は1170社あることが、東京商工リサーチ高松支社の調査で分かった。「四国老舗企業調査」によるもので、県別では香川県が401社(構成比34・2%)と最も多く、次いで愛媛県が363社(同31%)、徳島県が233社(同19・9%)、高知県が173社(同14・7%)だった。
 
企業データベースに登録されている全国の約244万3000社から創業100年以上の企業を抽出し分析した。宗教法人を除き、最も創業が古いのは安土桃山時代の1582年に創業した塗料卸売業「波多野塗料」=高松市=だった。
 
産業別では製造業342社(同29・2%)、小売業277社(同23・6%)、卸売業252社(同21・5%)が多かった。老舗企業のうち、明治時代の創業は8割で大多数を占めた。

設立の古い企業上位10社の創業年と所在地、業種は(1)波多野塗料(1582年、高松市、塗料卸売業)(2)シンツ(1592年、松山市、セメント卸売業)(3)馬居化成工業(1599年、徳島県鳴門市、試薬製造業)(4)後藤酒造(1602年、松山市、清酒製造業)(5)司牡丹酒造(1603年、高知県佐川町、清酒製造業)(6)三好商店(1610年、高松市、うちわ・扇子・ちょうちん製造業)(7)和泉商会(1633年、高松市、石工品製造業)(7)若林(1633年、徳島市、かばん・袋物小売業)(9)五色そうめん森川(1635年、松山市、めん類製造業)(9)ハリキチ(1635年、松山市、スポーツ用品小売業)−−。

編集後記
四国で100年以上続く企業が1170社で多いのか少ないのか判断に困りますが、高知県が少ないですね。香川県の半分以下なのですから、この原因はどこにあるのでしょうか。

高知県は農業、林業、漁業の1次産業が中心で、伝統的な産業として刃物、紙や酒はありますが、伝統工芸品として高知県でお土産を買おうとしてもなかなか思いつかないですね。

1次産業に付加価値をつけて販売ルートに乗せるのが上手ではなかったのでしょうか。
それとも、優秀な人材が高知県から離れて都市部で活躍しているからでしょうか。三菱をつくった岩崎弥太郎は高知県の出身ですがね。

【送料無料】岩崎弥太郎 [ 立石優 ]

【送料無料】岩崎弥太郎 [ 立石優 ]
価格:660円(税込、送料別)


伝統の銘菓「長生殿」を守って 菓子の森八(金沢・大手町)

伝統の銘菓「長生殿」を守って 菓子の森八(金沢・大手町)

吟味した原料を手仕事で
天下の銘菓「長生殿」を生んだ金沢市大手町の「森八」の創業は嘉永2年(1625)。
初代は、酒造業を営む加賀藩のお目得町人である。この人はたいそうすぐれた茶人だったようで、そんなことから加賀百万石の前田三代利常とは、あるいは茶会の交わりがあったのかも知れない。
利常は茶会を催すときには、みずから菓子をこしらえるという凝り性で、「長生殿」はこの茶席菓子から生まれ、390年のあいだ、金沢の風土に伝えられ守られてきた菓子なのである。

創業のころは、白地に胡麻を散らした、うすい塩味だったらしい。「田の面に落つる雁のよう」と、後水尾帝が評されたところから、以後、落雁(らくがん)と名付けられた。
現在、金沢市内にはお菓子をつくる店が100軒ほどあるそうだが、代表的な銘菓は「長生殿」で、製造元の「森八」では172万枚も売れたという。

この落雁「長生殿」は、砂糖にモチ粉をまぜ、糖蜜で練る。砂糖は徳島の極上和盆糖だが、和三盆と本紅の確保がむずかしいとか。
本紅はもとは山形産のものを使っていたが、今は岩手県の1、2軒の農家に生産をたよるばかりの心細さである。

「森八」では代々伝わっている家訓に
「原料が入手不能の祭は製造を中止すべし」
という1カ条があるので、米と砂糖と紅のどれ一つ欠けても、「長生殿」は打たないという。50年ほど前に大手の化粧品メーカーが紅花を買い占めたことがあり、このときは仕方なく、白い「長生殿」ばかりを打ったそうな。

その過程のほとんどが手仕事なのである。それに、いま一つの難しさは「長生殿」の篆書(てんしょ)文字を打ち出す技にある。
蒸しあがった落雁を型木に詰め、すみずみを軽くきっちりと押さえてから、一呼吸おいてポンと打ち抜く。
そのとき「長生殿」という字画をくずさずに打ち抜くには、やはり10年からの修行がいるという。
しかも、そうしたベテラン職人でも1日に100枚打つのがやっとのこと。
これほどさような伝統の菓子というものは手間隙がかかる。だから「長生殿」は、つくればつくるほど赤字が出るのだという。
といって、機械生産をしては「前田のお殿様に対して申し訳がたたない」と、そんな当主の苦しい胸の中をまるで知らぬげに「長生殿」は優雅な趣を漂わせながら「森八」の店頭に端然と並んでいる。

他のなさぬことをして抜きん出る 小間物のふしみや(静岡・呉服町)

江戸の商品を駿府で
慶長12年(1607)、徳川家康が駿府(静岡市)に住むようになって、全国から武士をはじめ商人、職人らが城下町に移住したので、駿府は大きくふくれあがり、にわかに賑わいをみせた。
一旗上げようと目論んで移住した者も多かったと思う。

株式会社ふしみや(静岡市呉服町2丁目)の初代小山善蔵もその中の一人で、京都伏見からやって来て、はじめ駿府台所町で「伏見屋」の看板をあげた。そして、江戸末期、11代小山善蔵のとき、市内紺屋町から現在地の呉服町に移って豆腐屋を営む。
宿場町へと商圏を広げ、東海道筋では”府中の大豆腐”として伏見屋の名が知られた。

13代の善蔵は、幼少のころ、父を失い、自身が病身だったので、朝が早く、重労働の豆腐業を廃業。「人は働かざるべからず」との母の教えに従い、小間物の製造販売の店を開いた。
母親と3兄弟が力を合わせて、新しい商法を展開して店を拡充、呉服町に間口14間半(約26m)の店を構えた。

この間、善蔵は「他人のことをまねるのみにては、出来得るはただ人並みのことぞ。他の人の為さざることをしてこそ抜んずるすべもあれ」という信念に基づき、当時、誰もしなかった”江戸の商品を駿府で”を実行した。
善蔵は、胴巻きに金を入れ、雪の箱根山を踏破する難行の独り旅を数日、江戸では母親が旅と取引きの無事を祈り、ほとんど眠れなかったといわれる。
商品は海路清水港に着き、専用の馬力で呉服町の店に運ばれたが、この方法は明治22年(1889)国鉄が開通するまで続けられた。

以後、商売は上昇。大正、昭和初期と順調な商売を続けていたが、昭和15年(1940)の静岡大火に見舞われ、広い店舗と土蔵2棟を全焼。
さらに昭和20年の戦災では、15代善蔵が新築した140坪と、静岡大火で残った土蔵2棟も灰になり、泣くに泣けなかった。

前後、増築に増築を重ねて店舗を拡充、昭和25年に合資会社ふしみやとし、取り扱い商品も化粧品、小間物、袋物、雑貨、そして婦人洋品、子供服などを充実した。
昭和34年には全国に先がけて不燃共同建築を、さらに38年と41年に増築してジュニア、玩具部門を新設。44年8月、9階建の「ふしみやビル」延べ6600平方メートルを完成した。

商人から買わず、商人に売らず 茶の竹茗(ちくめい)堂(静岡・呉服町)

青仕立ての煎茶を完成
静岡といえば、富士山、三保の松原、お茶にミカン、チャッキリ節、登呂遺跡など期せずして色々なものが浮かんでくる。
この中に、お茶の老舗・竹茗堂茶店(静岡市葵区呉服町2丁目)の創業は天明元年(1781)。初代山形屋庄八が駿府(静岡市)の七軒町に国産品問屋を開業したのに始まる。
「竹茗」という名は庄八の茶道の雅号で、茗はお茶という意味。
茶道mの道具のほとんどが竹で出来ていることや竹林を開いて作った茶園に、良いお茶ができることなどから「竹茗」という雅号をつけたそうな。

当時、宇治では緑色の青茶を完成していたが、駿府の茶は昔ながらの茶色のお茶であったのであまりふるわなかった。
そこで、初代竹茗は宇治茶にまさる茶をということで、茶の木の改良に努め、安倍川のほとりの足久保を選び、茶園を開く。
10年間、入念に良い品種づくりに努力し、遂に青仕立て煎茶の作り方を完成させた。これが駿府一円に広まっていった。

以来、2世紀にわたり茶一筋に営業を続けてきたが、その間、竹茗堂代々の当主に受け継がれてきたことは、「商人から買わず、商人に売らず」という方針を堅持して、品質本位、良品廉価の主義を貫いてきたことだ。
これは現代の複雑、かつ幅広い商活動の情勢からいえば、古い観念的な考え方かも知れない。が、元来、農産物としての茶の小売商人としては、生産者から直接仕入れ、そして自分の手で消費者に買ってもらう、という商人魂の発露ともいえよう。

そういう竹茗堂の優れた血は引き継がれている。現社長がとくに意を用いた点は
1、味の良い原茶を仕入れ。
1、お客様に喜んでいただける良いお茶の販売。
1、そのためには取り扱う販売員の教育に重点を置く。
であった。
これらの基本的な考え方は、今も茶の小売に生かされている。中でも同社の店員教育は特別きびしいものがあり、店頭における女子社員の接客の仕方には徹底した指導を繰り返したものである。
毎朝、行っている朝礼には、次の言葉を唱和している。
1、今日1日おいしいお茶を気持ちよくお客様に買っていただくことが私どもの仕事。
2、常に健康で活発にお客様に接すること。
3、お互いに仲良く店務に励むこと。
4、自分で進んで仕事をすること。
5、言葉づかいを丁寧にすること。
なお、毎年入社する女子社員を前に、社長は「1、礼儀・言葉づかい、2、清潔・整頓、3、スピードサービス」を強調しつづけている。
これらが全社員の日常勤務の中に生かし継がれ、老舗といわれ、230年の伝統に恥じない竹茗堂の業績向上に尽力しているわけではあるまいか。

店大きくせずとも堅守せよ 菓子の扇子(おおぎ)屋(静岡・七間町)

天保年間にカステラをつくる
徳川家康は、隠居後の慶長13年(1608)から同14年にかけて、駿府(静岡市)城下町九十六カ町づくりを行った。
同時に、商工業者を全国から招き、彼らに諸役の免除や自由営業を許したので、とりわけ商家は経済的恩恵を十分うけた。
当時の人口は10万人といわれている。したがって、駿府は江戸のように繁華な都市になるだろうから、一旗上げようともくろんで上方から移住した者が多かった。
その中の一人、谷田庄兵衛は近江国日野(現在の滋賀県蒲生郡日野町)からやって来て、よしず張りの菓子店を開いた。
これが、現在の扇子屋(静岡市七間町)である。ときに元和元年(1615)と伝えられている。以後、代々襲名している。

当時の菓子といっても酒まんじゅうぐらいしかなかったが、駿府城のすぐ前にあったので、結構店は繁盛した。
扇子屋の由来は、谷田さんの話によると、初代の庄兵衛さんがある朝、店を開けたところ扇子が道に落ちていた。「これは末広がりで縁起がいい」ということで、扇子屋を名乗ったという。

代々研究熱心で、扇子屋がカステラを作ったのが天保2年(1831)。当主が本場の長崎に出向き、同じ近江国出身の近江屋伝兵衛の店に3日間、滞在して秘伝を受けたという。
明治元年(1868)10月、明治天皇が静岡地方にご旅行、伝馬町の小倉本陣にお休みの折、扇子屋は上等な菓子を献上した。
その血を受け継いだ現当主の谷田さんは、「いかにお客様に満足してもらえるかということで、品物には自信をもって作っていますが、それには真心をこめて商いをするということが大事です。」といっている。

その扇子屋の「掟」は、8代目庄兵衛が作ったもので、次の通りである。

1、苦は楽の種、楽は苦の種。
1、主人と親は無理なろものと思え。
1、下人は足らぬものと知るべし。
1、子ほどに親を思え、子なるものは身にくらべ近き手本と知るべし。
1、御掟におぢよ火におそれよ、恩を忘ることなかれ。
1、欲と色と酒を敵と知るべし。
1、朝寝すべからず長座すべからず。
1、小なることを分別せよ、大成事おどろくべからず。
1、分別とは堪忍をもって知るべし。
1、九分は足らず十分はこぼると知るべし。

また、代々の言い伝えは、「店は大きくしなくてもよいから、堅く守っていけばよい」。近江商人らしい堅実ぶりがしのばれる。

洋菓子に賭けた男の生涯 菓子の森永製菓(東京・芝) 2/2

この四カ条の訓戒を、太一郎は生涯忘れることはなかった。つまり常に正義の観念に支配せられておれば、己に克って正当の品を扱うことは必ず実行し得られる。そして、これが信用をかち得る本となるということ。
次に至当の価と信じ、一度発表した値段は負けないで貫徹することであるが、これは難問であったと思う。
次に10年を1期とするの考えでいないと、いわゆる毀誉褒貶など問題ではなく、必ず彼岸に達し得るのだという自信および忍耐力がややもすると鈍るものであるということを教訓している。

百万ドル富豪の夢に燃え
森永太一郎がこの訓戒を胸に秘め、百万ドルの富豪の夢に燃えて単身、アメリカに向けて発ったのは明治21年(1888)7月、23歳のときであった。
「必ず洋菓子で成功してみせる」という決意をもって、あるときはパン工場の下職、あるときはキャンディ工場の職人として働き、明治32年に帰国。
稼いだ金を資本に、日本初の洋菓子工場を創設した。明治41年(1908)、森永ポケットキャラメル(印刷箱10粒入り・10銭)を発売。これが、けし粒のような工場を、のちの大森永に押し上げたのである。
森永太一郎が発揮したパイオニア精神の根底に流れるものは、「おいしく・たのしく・すこやかに」という企業理念である。

洋菓子に賭けた男の生涯 菓子の森永製菓(東京・芝) 1/2

洋菓子に賭けた男の生涯 菓子の森永製菓(東京・芝)

10年を1期として仕事せよ
「おいしく・たのしく・すこやかに」のシンボル「エンゼルマーク」森永キャラメルでおなじみの森永製菓梶i東京都港区芝)は明治32年(1899)、佐賀県生まれの森永太一郎が、東京・赤坂溜池に日本初の洋菓子専門工場(森永西洋菓子製造所)を創設したのに始まる。

森永太一郎の生家は、佐賀県伊万里町(現・伊万里市)で祖父の代まで伊万里焼の問屋を営んでいたが、父の代に事業不振となって没落。そのうえ頼みとする父は明治3年(1870)に死去、母は他家に再縁したため、天涯孤独の身となってしまった。
12歳のとき、伊万里焼の問屋を営む伯父・山崎文左衛門の薫陶のもとで、行商を始めた。その伯父の訓戒は次のとおり。

1、いかなる場合においても正当な品のみを扱い、決して不正直なものを売買してはならぬ。
2、もし目の前の欲に迷い、不堅実の品を扱うようなことがあったら、決して真の商人となることはできない。
3、適当の価と信じてその売価を発表したならば、顧客に左右せられてもその値を絶対に引いてはならない。もし、値を負けるような意志の薄弱なことでは、商人として成功することは到底不可能である。
4、また、急がずに10年を1期と定めて仕事をせよ。その理由は商売をしていると走馬灯のように、絶えず損があり益があるから、眼前の損益にとらわれると、自然迷いが生ずるので、遠大に構えてその業を終生守ることができなくなる。

厳しい掟で290年の家名連綿 紙の服部商事(東京・京橋) 2/2

服部紙商事に限らず他の伊勢店には古くから家訓・店掟目・掟書などがあって、店の運営についてすべて規定されていた。
これらを年2回、定められた日に番頭が読み上げ、店員一堂に厳守させたといわれる。これらの家訓に違反して、悪所通い、不身持ちなどの不行跡を重ねたときは、たとえ主人といえども隠居させられるという不文律があった。

こうした厳しい掟が、伊勢店が江戸時代から連綿と生き延びてきた基盤となった、といっても過言ではない。

服部紙商事の明治3年(1870)の店規則には
「往昔より時々盛衰これあるといえども、家名連綿は全く祖先の余光と冥加至極ありがたくつつしみたまわり」
と家系の連綿継続をまず感謝させ、店内においては「上下和睦」の要を説いている。
さらに
「召仕の賢愚にかかわらず、賢も愚も天より授けたもうところなれば、平等に慈愛するは主位の徳を収むるゆえん」
とし
「傍輩は相互にその不足を補い、その徳を欠かさぬようにするをもってその身を収むる時は、その家永く繁栄して主従共に天幸を蒙ること更に疑いなし」
と主従、傍輩の道徳を強調している。

厳しい掟で290年の家名連綿 紙の服部商事(東京・京橋) 1/2

厳しい掟で290年の家名連綿 紙の服部商事(東京・京橋)

伊勢屋、稲荷に犬の糞
江戸は開府以前には商家といっても、近在の農民相手の商いが細々と営まれていただけで、商業といえるほどのものはなかった。
だから、江戸開府とともに家康とともに従って、はるばる江戸の地に乗り込んだきた他国の商人が幅をきかしたのもむりからぬことであろう。

したがって江戸町人の草分けとなったものは、三河や遠江、近江、伊勢、京阪の商人がその大半を占めていた。なかでも伊勢の商人は「江戸名物、伊勢屋、稲荷に犬の糞」と軽口をたたかれるほど、大江戸八百八町、とりわけ日本橋周辺の商家には、伊勢出身の者が多かった。
彼らは、成功して店を構えると、多くは伊勢屋と称した。江戸ではこれら伊勢商人の店を伊勢店(だな)といい、伊勢ではこれを江戸店(だな)と呼んでいた。

創業が万治2年(1659)の服部紙商事梶i東京都中央区京橋)の初代仁平治も伊勢国山添村(三重県松阪市山添町)出身で、はじめ両国付近に煙草屋を開業し、第8代八左衛門が煙草屋のほかに紙の商売も手がけたにに始まる。したがって、現存する紙問屋の中でも、最も創業が古い紙商である。
そして、文化10年(1813)刊行の「江戸十組問屋銘鑑」の紙・茶・煙草・傘・ろうそく・そうめん・麻芋・線香問屋の部に服部は「湊屋源三郎」の名でそれぞれ掲載されている。
日々の経営に行き詰まりを感じたり、ストレスがなかな取り除けないと思ってダラダラと仕事をしていませんか。
ときには、非日常を求めて、癒しを求めてちょっとだけ旅行でもしてみてはいかがでしょうか。