他のなさぬことをして抜きん出る 小間物のふしみや(静岡・呉服町)

江戸の商品を駿府で
慶長12年(1607)、徳川家康が駿府(静岡市)に住むようになって、全国から武士をはじめ商人、職人らが城下町に移住したので、駿府は大きくふくれあがり、にわかに賑わいをみせた。
一旗上げようと目論んで移住した者も多かったと思う。

株式会社ふしみや(静岡市呉服町2丁目)の初代小山善蔵もその中の一人で、京都伏見からやって来て、はじめ駿府台所町で「伏見屋」の看板をあげた。そして、江戸末期、11代小山善蔵のとき、市内紺屋町から現在地の呉服町に移って豆腐屋を営む。
宿場町へと商圏を広げ、東海道筋では”府中の大豆腐”として伏見屋の名が知られた。

13代の善蔵は、幼少のころ、父を失い、自身が病身だったので、朝が早く、重労働の豆腐業を廃業。「人は働かざるべからず」との母の教えに従い、小間物の製造販売の店を開いた。
母親と3兄弟が力を合わせて、新しい商法を展開して店を拡充、呉服町に間口14間半(約26m)の店を構えた。

この間、善蔵は「他人のことをまねるのみにては、出来得るはただ人並みのことぞ。他の人の為さざることをしてこそ抜んずるすべもあれ」という信念に基づき、当時、誰もしなかった”江戸の商品を駿府で”を実行した。
善蔵は、胴巻きに金を入れ、雪の箱根山を踏破する難行の独り旅を数日、江戸では母親が旅と取引きの無事を祈り、ほとんど眠れなかったといわれる。
商品は海路清水港に着き、専用の馬力で呉服町の店に運ばれたが、この方法は明治22年(1889)国鉄が開通するまで続けられた。

以後、商売は上昇。大正、昭和初期と順調な商売を続けていたが、昭和15年(1940)の静岡大火に見舞われ、広い店舗と土蔵2棟を全焼。
さらに昭和20年の戦災では、15代善蔵が新築した140坪と、静岡大火で残った土蔵2棟も灰になり、泣くに泣けなかった。

前後、増築に増築を重ねて店舗を拡充、昭和25年に合資会社ふしみやとし、取り扱い商品も化粧品、小間物、袋物、雑貨、そして婦人洋品、子供服などを充実した。
昭和34年には全国に先がけて不燃共同建築を、さらに38年と41年に増築してジュニア、玩具部門を新設。44年8月、9階建の「ふしみやビル」延べ6600平方メートルを完成した。

日々の経営に行き詰まりを感じたり、ストレスがなかな取り除けないと思ってダラダラと仕事をしていませんか。
ときには、非日常を求めて、癒しを求めてちょっとだけ旅行でもしてみてはいかがでしょうか。